時にはピアノを離れて、歌曲を深読み…
歌曲「霧と話した」と詩人・鎌田忠良についてのお話です。
★ ★ ★ ★ ★
「わたしの頬はぬれやすい…」と歌い始める鎌田忠良作詩、中田喜直作曲の歌曲—ミステリアスな詩の内容と日本語を活かした旋律、それらを見事に引き立てるピアノパートで広く歌い継がれているこの曲には、1960年4月に「関種子楽壇生活30年記念演奏会」で初演された、ということ以外ほとんど情報がありませんでした。
ノンフィクション作家として知られ、「日章旗とマラソン」「迷宮入り事件と戦後犯罪」「熱い汗、スリリングな栄冠」「スポーツの旗手たち」等の著書がある鎌田忠良(1939~青森)の、詩人としての顔は…そして中田喜直(1923~2000東京)との接点は…
青森の林檎園で生まれ育った鎌田忠良は、青森高校在学中から文学に傾倒し、東京の大学に進学後も企業の嘱託として宣伝のための詩を書いたり、放送劇やテレビのための仕事に携わったりしていました。1960年から約10年、NHK等のラジオドラマも執筆しています。時代は高度経済成長期、生活が大きく変化し、さまざまな新しい文化が生まれたころです。
「霧と話した」が「詩」として掲載されている、おそらく唯一の書籍は、「放送詩劇集 天国の異邦人」(1962.6 思潮社)です。ここには、ラジオやテレビの台本とともに、「CHANSON」として「鳥かごの唄」「霧と話した」「笛吹き少年」「私と潮騒」という4篇の詩が、それぞれ作曲者、初演情報を添えて載せられています。この書籍の跋文は寺山修司(1935~1983青森)から寄せられ、あとがきにあたる「ノオト」には鎌田自身が、
この中におさめたドラマは、ここ1年以内に書いたものから選んだ。
正直な所、これらの歌うための詩や、ドラマを書き出した動機は大変単純だった。
詩人たちが読むための詩のみに、妙にこだわっている事に対する生理的な反発からだったといっていい。本来、詩は歌であり、ドラマではなかったか、ということを作品で示したかっただけだった。
所で今度この作品集を組む気になった理由は、以後当分の間私は、これらの傾向のドラマを書くまいと決心した事による。
現代の状況や現象を書いた作品は大変多い。むしろ、流行していると言っていいと思う。しかし いま私たちに必要なのは、一人の生きたナマの人間であり、真の意味の現代の青春ではなかろうか。 (後略)
と記しています。
さて1948年から2007年まで発行された雑誌「詩学」(詩学社・岩谷書店)の1960年8月号、「グループめぐり」欄に、鎌田は自身の活動として「唄う詩のグループ 鮫の会」について書いています。ここには「鮫の会」が、1959年8月に「唄うための現代詩」の確立をめざして結成された、とありますが、メンバーも活動も緩やかかつ流動的であったようで、もっぱら、集まり語り合い発表しあう、という会だったようです。
そして、1960年5~6月の毎週金曜日、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で〝新しい日本の唄の創作をめざして集った詩人と作曲家の作品を唄う〟「銀巴里・フライデイコーナー」なる会が開かれました。ここに参加したメンバーには、グループ外の詩人として谷川俊太郎、新川和江、寺山修司の名があがり、作曲家としては、あえてジャンルを超えて選定したとのこと、中田喜直、林光、宅孝二、三保敬太郎、寺島尚彦、浜口庫之助が名を連ねています。この会で生まれた「霧と話した」は、「フライデイコーナー」に先がけて4月に前述の「関種子楽壇生活30周年記念演奏会」で歌われ、その後NHK「歌の広場」でも取り上げられたため、世の中に広く知られるようになったのでしょう。また、この試みは「歌われ、作曲されるということに性急すぎ、既成の作曲家や歌手とのつながりに安易に走りすぎた」ことから、彼らの本来の意図である「唄うための詩」の理想とは異なる方向に向かってしまった、とも書かれています。
「読むための詩」ではなく「唄うための詩」をめざした鎌田忠良にとって、「詩を文字で発表する」ことにあまり意味はなかったのでしょうか、「詩集」の類は出版されてはいません。1966年以降書かれた雑誌記事は文学系からルポルタージュに傾き始め、1968年、家出・蒸発とそれに関連する事件を取り上げた「蒸発:人間この不思議なもの」(三一書房)が出版されました。
「霧と話した」がどのように作曲されたのか、鎌田忠良と中田喜直の接点はどこにあったのか。それは、昭和30年代新たな詩の方向性を模索していた青年たちの熱い思いから生まれた「銀巴里」での試みにありました。ここで生まれ、今なお歌われ続けている曲は「霧と話した」のみですが、参加した詩人、作曲家のその後の活躍については言うまでもありません。そして、鎌田自身もやがて新たな表現活動、ルポルタージュや評論へと進み始めました。
鎌田忠良作詩の曲には、前述「天国の異邦人」に載せられた4篇以外に田中利光作曲の男声合唱曲「樹」(1988音楽之友社)があります。一本の樫の樹をモチーフにしたこの曲は、専修大学グリークラブの委嘱によって1970年4月に作曲され、同年10月11日都合唱コンクールにて初演されました。その後、同年の第6回定期演奏会、1972年の第8回定期演奏会、1979年の第15回定期演奏会で再演されています。田中利光(1930~2020青森)の初演当時のコメントによると、「詩は友人鎌田忠良氏のもので、『はだかの島』『すンずめほオしンじょ』(1966音楽之友社)に続く彼との合作の三作目に当る、とのことです。また、桜田誠一(1935~2012青森)作曲による「人生ずばり節 東京の僕ふるさとの君」(1966)、「涙が三つ 夕日と口笛」(1966)の記録もあります。作曲家の出身は、いずれも青森です。
★ ★ ★ ★ ★
演奏活動をしていると、その曲がどんなふうに生まれたのかが気になるものです。
詩をどう解釈するかは、演奏者それぞれの経験や感性によるところも大きいと思いますが、
こんな時代にこんなふうに生まれた曲なのね…という背景を知ると、
自分の中で何かが少し変わるような…。
歌曲「霧と話した」と詩人・鎌田忠良についてのお話です。
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「わたしの頬はぬれやすい…」と歌い始める鎌田忠良作詩、中田喜直作曲の歌曲—ミステリアスな詩の内容と日本語を活かした旋律、それらを見事に引き立てるピアノパートで広く歌い継がれているこの曲には、1960年4月に「関種子楽壇生活30年記念演奏会」で初演された、ということ以外ほとんど情報がありませんでした。
ノンフィクション作家として知られ、「日章旗とマラソン」「迷宮入り事件と戦後犯罪」「熱い汗、スリリングな栄冠」「スポーツの旗手たち」等の著書がある鎌田忠良(1939~青森)の、詩人としての顔は…そして中田喜直(1923~2000東京)との接点は…
青森の林檎園で生まれ育った鎌田忠良は、青森高校在学中から文学に傾倒し、東京の大学に進学後も企業の嘱託として宣伝のための詩を書いたり、放送劇やテレビのための仕事に携わったりしていました。1960年から約10年、NHK等のラジオドラマも執筆しています。時代は高度経済成長期、生活が大きく変化し、さまざまな新しい文化が生まれたころです。
「霧と話した」が「詩」として掲載されている、おそらく唯一の書籍は、「放送詩劇集 天国の異邦人」(1962.6 思潮社)です。ここには、ラジオやテレビの台本とともに、「CHANSON」として「鳥かごの唄」「霧と話した」「笛吹き少年」「私と潮騒」という4篇の詩が、それぞれ作曲者、初演情報を添えて載せられています。この書籍の跋文は寺山修司(1935~1983青森)から寄せられ、あとがきにあたる「ノオト」には鎌田自身が、
この中におさめたドラマは、ここ1年以内に書いたものから選んだ。
正直な所、これらの歌うための詩や、ドラマを書き出した動機は大変単純だった。
詩人たちが読むための詩のみに、妙にこだわっている事に対する生理的な反発からだったといっていい。本来、詩は歌であり、ドラマではなかったか、ということを作品で示したかっただけだった。
所で今度この作品集を組む気になった理由は、以後当分の間私は、これらの傾向のドラマを書くまいと決心した事による。
現代の状況や現象を書いた作品は大変多い。むしろ、流行していると言っていいと思う。しかし いま私たちに必要なのは、一人の生きたナマの人間であり、真の意味の現代の青春ではなかろうか。 (後略)
と記しています。
さて1948年から2007年まで発行された雑誌「詩学」(詩学社・岩谷書店)の1960年8月号、「グループめぐり」欄に、鎌田は自身の活動として「唄う詩のグループ 鮫の会」について書いています。ここには「鮫の会」が、1959年8月に「唄うための現代詩」の確立をめざして結成された、とありますが、メンバーも活動も緩やかかつ流動的であったようで、もっぱら、集まり語り合い発表しあう、という会だったようです。
そして、1960年5~6月の毎週金曜日、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で〝新しい日本の唄の創作をめざして集った詩人と作曲家の作品を唄う〟「銀巴里・フライデイコーナー」なる会が開かれました。ここに参加したメンバーには、グループ外の詩人として谷川俊太郎、新川和江、寺山修司の名があがり、作曲家としては、あえてジャンルを超えて選定したとのこと、中田喜直、林光、宅孝二、三保敬太郎、寺島尚彦、浜口庫之助が名を連ねています。この会で生まれた「霧と話した」は、「フライデイコーナー」に先がけて4月に前述の「関種子楽壇生活30周年記念演奏会」で歌われ、その後NHK「歌の広場」でも取り上げられたため、世の中に広く知られるようになったのでしょう。また、この試みは「歌われ、作曲されるということに性急すぎ、既成の作曲家や歌手とのつながりに安易に走りすぎた」ことから、彼らの本来の意図である「唄うための詩」の理想とは異なる方向に向かってしまった、とも書かれています。
「読むための詩」ではなく「唄うための詩」をめざした鎌田忠良にとって、「詩を文字で発表する」ことにあまり意味はなかったのでしょうか、「詩集」の類は出版されてはいません。1966年以降書かれた雑誌記事は文学系からルポルタージュに傾き始め、1968年、家出・蒸発とそれに関連する事件を取り上げた「蒸発:人間この不思議なもの」(三一書房)が出版されました。
「霧と話した」がどのように作曲されたのか、鎌田忠良と中田喜直の接点はどこにあったのか。それは、昭和30年代新たな詩の方向性を模索していた青年たちの熱い思いから生まれた「銀巴里」での試みにありました。ここで生まれ、今なお歌われ続けている曲は「霧と話した」のみですが、参加した詩人、作曲家のその後の活躍については言うまでもありません。そして、鎌田自身もやがて新たな表現活動、ルポルタージュや評論へと進み始めました。
鎌田忠良作詩の曲には、前述「天国の異邦人」に載せられた4篇以外に田中利光作曲の男声合唱曲「樹」(1988音楽之友社)があります。一本の樫の樹をモチーフにしたこの曲は、専修大学グリークラブの委嘱によって1970年4月に作曲され、同年10月11日都合唱コンクールにて初演されました。その後、同年の第6回定期演奏会、1972年の第8回定期演奏会、1979年の第15回定期演奏会で再演されています。田中利光(1930~2020青森)の初演当時のコメントによると、「詩は友人鎌田忠良氏のもので、『はだかの島』『すンずめほオしンじょ』(1966音楽之友社)に続く彼との合作の三作目に当る、とのことです。また、桜田誠一(1935~2012青森)作曲による「人生ずばり節 東京の僕ふるさとの君」(1966)、「涙が三つ 夕日と口笛」(1966)の記録もあります。作曲家の出身は、いずれも青森です。
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演奏活動をしていると、その曲がどんなふうに生まれたのかが気になるものです。
詩をどう解釈するかは、演奏者それぞれの経験や感性によるところも大きいと思いますが、
こんな時代にこんなふうに生まれた曲なのね…という背景を知ると、
自分の中で何かが少し変わるような…。
2021/07/30